これまでのシリーズでは、EUの食品安全法体系が「食品安全の基本法」から「衛生パッケージ」、そして「微生物基準規則」へと明確に構造化されていることを見てきた。また、EUでは食品安全基準を病原菌に限定してスリム化し、同時に工程衛生基準という枠組みを新たに設けたことも確認した。

では、なぜEUはこのような制度設計を選んだのか?
その背景には、「HACCPが理想通りに機能すれば、最終製品の微生物検査や規格基準は不要となる」という根本的な思想がある。しかし現実には、HACCPだけでは完全に制御できない製品や工程が数多く存在する。

今回の記事では、EUの制度構造を支えるこの「HACCP万能論」とその限界に注目し、検査との関係性を具体例を交えて検討する。
結論を先に述べれば、HACCPと検査は補完関係のようで、どちらも完全には頼れないという構造的なジレンマが存在する。この曖昧な補完関係を見通すことで、EUの制度設計が持つ深層的な意味、そして日本の制度との対比におけるヒントが得られるはずである。

HACCPによる工程管理と微生物検査のどちらに重きを置くべきかを迷っている食品従事者と品質管理担当者を描いたイラスト。中央には天秤があり、両者のバランスに疑問が投げかけられている。

HACCPが理想的に運用されたとき、検査も規格基準も不要である

 HACCPの基本思想は、「製品の安全性は、出荷時の検査で保証すべきではない」という考え方である。検査には統計的限界があり、ごく一部のサンプルからロット全体の安全性を判断するのは難しい。

大量の製品が積まれた中で、限られたサンプルだけを検査し「陰性」と判断する検査員と、その背後に見え隠れする無数の微生物を描いたイラスト。製品検査の限界と見逃されるリスクを視覚的に表現している。

そもそもHACCPは、1960年代にNASAの宇宙食開発をきっかけに誕生した仕組みである。宇宙空間では食中毒が絶対に許されない。そこで、出荷時の製品検査に頼るのではなく、危害要因(Hazard)を事前にすべて洗い出し、工程内で確実に潰しておくという根本的な発想が生まれた。これが、HACCP(Hazard Analysis and Critical Control Point)の原点である。

宇宙飛行士が缶詰を手に激怒し、「微生物規格基準なんて意味がない」と訴える場面。対する研究員は戸惑いながら「HACCP導入を検討している」と弁解しつつ、微生物規格基準と書かれた紙を持っている。HACCPの起源と、検査に頼れない宇宙空間での食品安全の思想をユーモラスに描いたイラスト。

 そこでHACCPでは、原料受け入れから出荷までの工程にCCP(重要管理点)を設定し、リスクを工程内で確実に潰す仕組みを設ける。出荷時に“お祈り”で検査するのではなく、事前に“計画的に潰しておく”という発想だ。

 この仕組みが最も理想的に運用されているのが、加圧加熱殺菌された缶詰である。ボツリヌス菌芽胞のリスクに対し、12Dプロセスという強力な殺菌条件が設定され、リスクは理論的に1兆分の1以下に下がる。さらに密封されており、再汚染の可能性もない。

HACCPに基づき加熱殺菌と再汚染防止が完全に設計された缶詰製品では、製品検査が不要となり、制度上も微生物規格基準が存在しないことを示すフローチャート図。赤帯で「微生物規格基準存在せず」と強調されている。

 鉄壁の城のように一度閉じてしまえば、外から微生物は入れない。そのため検査の意味は事実上なく、もし陽性結果が出れば、それは検体汚染や手技ミスの可能性が高い。

実際、缶詰に関しては国際的に以下のような特徴がある

  • 微生物規格基準が存在しない
  • 製品検査が制度上義務づけられていない
  • つまり、検査という制度そのものが存在しない

これは、HACCPが理想通りに運用されている結果として、“検査不要の状態”が制度として実現していることを意味する。

 この缶詰の事例は、「HACCPがどこまで徹底されれば検査や規格が不要になるか」を理解する上での教科書的な指標となる。

 まずこの構造をしっかり頭に入れてほしい。以降はこの原則の“例外”を扱っていく。

CCPでの制御は十分でも、再汚染という盲点がある

缶詰のように、HACCPによって加熱から密封までが完結し、再汚染のリスクが構造的に排除されている製品はむしろ例外である。

多くの食品では、たとえ加熱で一度微生物が除去されたとしても、その後の冷却・スライス・包装といった工程で再び汚染される可能性がある。これが、「再汚染(post-process contamination)」の問題である。

たとえば、調理ハムやサラダチキンのように「一度加熱してからスライス・包装する」商品では、冷却後にListeriaなどが再付着するリスクが現実的に存在する。

理想は、「加熱後に再汚染が起きない設計」だが、それが難しい現実の中で、検査という補完的手段に頼らざるを得なくなるのである。

加熱された食品が搬送される工場のラインで、作業員がスライス処理を行う中、空気中や手元に浮遊する菌が製品に再付着していく様子を描いたイラスト。右側には、包装された食品を拡大鏡で確認すると菌が付着している様子が描かれ、「加熱後の再汚染」のリスクを視覚的に表現している。

HACCPの設計そのものが難しい製品もある

 もう一つの例外が、HACCPの設計そのものが難しい製品群である。たとえば日替わり弁当や多品種惣菜を扱う中小企業の製造現場では、工程が定まらず、毎日原材料も作業内容も異なる。そのため「この製品にこのCCPを」という設計が構造的に不可能なケースもある。

 また、加熱済みの具材と非加熱の生野菜を組み合わせるような商品では、そもそも全体の安全性を工程内で制御しきれない。ここでも、リスクを潰す設計ができない分、検査への依存が高まる。

 こうした場合、HACCPが立ち上がらない構造的問題があるため、検査という“とりあえずの手段”に頼るしかないという現実が生まれる。

日替わりの惣菜や弁当の具材が並ぶ中で、HACCPのCCP(重要管理点)の設定に悩む食品工場の現場責任者の様子を描いたイラスト。食材の種類や構成が毎日異なることで、標準化が難しいという現場の困難を表現している。

HACCPと微生物検査──補完関係のようでそうでもない

 ここまでの例から見えてくるのは、HACCPと検査があたかも補完関係にあるように見えるという点である。HACCPが100%機能すれば検査は不要、逆にHACCPが曖昧であれば検査に依存する。そう考えると、両者は“バランスを取り合う二律背反”のような関係に見える。

HACCPの機能レベルが高いほど微生物検査への依存度は下がり、逆にHACCPが機能しない場合には検査への依存が高まるという関係性を示すグラフ。両者は補完的な関係に見えるが、その実効性には疑問符がつけられている構造図。

だが実際には、検査がHACCPの不完全さを本当に補えるのかという点に、大きな疑問がある。
その点について、次に検討してみたい。

だからといって、検査は補完にならない──世界が抱えるジレンマ

 検査に頼れば安全が担保されるのか。答えは「必ずしもそうではない」。微生物の汚染は製品中に均一に分布しておらず、局所的で低頻度に起きるため、5点程度のサンプルを取って陰性だったとしても、それは「運がよかった」だけかもしれない。

 たとえば3%の汚染率の中で5点を調べてすべて陰性になる確率は約86%。つまり、実際に汚染されていても検査では検出できないことが普通に起こる。

微生物検査におけるサンプル数とその結果の信頼性について、分かりやすい記事は下記をご覧いただきたい。

食品の微生物検査の目的と精度計算法をわかりやすく説明します

 つまり、HACCPと検査が補完関係にあるように見えても、どちらも「完全に頼れる手段」ではないのが現実である。HACCPが100%機能する製品は少なく、検査は検査で構造的に頼れない。そのはざまで、現場は今も揺れている。

 HACCPが制度化された多くの国々で、似たような構造的ジレンマが共有されている。検査と構造管理の間で揺れるこの状況こそが、いま私たちが置かれている「食品安全のリアル」なのである。

微生物検査の結果が「陰性」であったにもかかわらず、不安げに検査結果を見つめながら「たまたまかもしれない」と懸念を抱く食品検査担当者たち。サンプリング検査の限界と、陰性結果が必ずしも安全を意味しないことへの疑念を描いた写真。

EUはこのジレンマをどう制度設計で処理したのか?

この現実こそが、EUが食品安全基準をスリム化し、工程衛生基準を新たに設けた背景である。
EUは2005年の衛生パッケージ導入に際し、HACCPを制度の中核に据える方向に大きく舵を切った
本来、HACCPが理想通りに機能すれば、製品ごとの微生物規格基準はゼロでも安全は保証される──それが制度設計の出発点である。
しかし、実際にはすべての製品でHACCPが完結するわけではなく、補完が必要な場面がある。

HACCPの理想と現実の限界の間で悩むEUの制度設計者を描いたイラスト。天秤に「HACCPの理想」と「現実の限界」が置かれている。


そこでEUは、従来のように指標菌と病原菌が混在した複雑な規格体系を抜本的に見直し、病原菌のみに特化した「食品安全基準」へとスリム化を行った。


一方で、HACCPの限界を補うために、「工程の清潔さ」を管理する工程衛生基準という第二の柱を併設したのである。
この二本柱の構造こそが、HACCP理想主義と現実の運用との間に橋を架ける制度的な回答だった

2005年のEU衛生パッケージ導入により、微生物規格基準が大幅に縮小され、HACCPを中心とした制度に転換したことを示す図

本シリーズの第1弾・第2弾で紹介したEUの法体系の合理性は、こうした理想と現実のギャップへの制度的な回答として理解されるべきだろう。今後、日本の制度をどう考えるかにとっても、重要な示唆を与えてくれる。