先週(2026年1月下旬)、世界の食品安全関係者の間で重大な関心を集めるニュースが飛び込んできました。フランスの乳業大手ダノン(Danone)社をはじめ、ネスレ、ラクタリスといった世界的企業が、乳幼児用粉ミルクの広範囲な自主回収を開始しました。原因は、セレウス菌が産生する耐熱性毒素「セレウリド(Cereulide)」による汚染の疑いです。フランスではすでに乳児の死亡事例も報告されており、当局による厳重な捜査が進められています。なぜ、高度な品質管理を誇るはずの乳業大手が、これほど大規模な汚染を許してしまったのか。その背景には、グローバルな原材料供給網の「盲点」がありました。

事件の経緯:フランスでの死亡事例と世界への拡大

 2026年1月、ダノン社の主力ブランド「Gallia(ガリア)」や「Blédina(ブレディナ)」の特定のバッチからセレウリドが検出された可能性があるとして、フランスを皮切りにイギリス、ベルギー、シンガポールなどで大規模な回収が発表されました(参照:FSAI/ The Brussels Times)。

乳児用粉ミルク製造ラインでリコール通知が出される様子と、セレウリド汚染リスクを象徴的に示した哺乳瓶のイラスト

 深刻なのは健康被害の実態です。フランスでは、リコール対象となった乳児用ミルクを摂取したと申告されているミルクを摂取した生後14日と27日の乳児2名が死亡するという痛ましい事態が発生しています(参照:Yahoo Style France)。現在、検察当局がミルク摂取と死亡の因果関係を慎重に捜査中ですが(因果関係は未確定、参照:Boursorama/Reuters)、入院に至ったケースでは激しい嘔吐や下痢、急性肝不全に近い症状も報告されており、乳幼児におけるセレウリドの臨床的な危険性が改めて浮き彫りになっています。

乳児用粉ミルクの製造現場でリコールが行われ、セレウリド汚染リスクが問題となっている状況を示すイメージ

【関与企業と規模】

  1. ネスレ(Nestlé) - スイス
  • 最初に発覚・約60カ国でリコール
  • ブランド:SMA, Beba, Guigoz, Alfamino, NAN
  • 推定損失:最大13億ドル(約1,890億円)
  • 公式リコール情報
  1. ダノン(Danone) - フランス
  • 対象ブランド(例):Aptamil(国により対象商品が異なる)
  • 回収対象の一部:アイルランド製造品(EU・UK・第三国向け)
  • 推定損失:約1億ユーロ(約118億円(Barclays推計)
  • アイルランド食品安全局の公式発表
  1. ラクタリス(Lactalis) - フランス
  • ブランド:Picot
  • 18カ国でリコール(フランス、中国、オーストラリア、メキシコ等)
  • 6バッチが対象

参考:3社まとめての報道Euronews報道

汚染の根源:原材料「ARAオイル」の供給網に潜む死角

 今回の事件が「業界全体の危機」となった最大の要因は、汚染源が最終製品の製造工程ではなく、共通の原材料にあったことです。

 調査の結果、各社の粉ミルクに共通して配合されていた中国・Cabio Biotech社製の「ARA(アラキドン酸)オイル」(複数の報道でCabio Biotech社が供給元として示唆されているが、公式には未確認)がセレウリドに汚染されていた疑いが濃厚となっています(参照:Jiemian News/ Belga News Agency)。中国製ARAオイル」

複数の粉ミルクメーカーが共通の原材料として中国産アラキドン酸(ARA)オイルを使用していた構造を示す図

ARAオイルは、脳と網膜の発達に重要なオメガ6脂肪酸であり、母乳の成分に近づけるために必須の添加物として広く使われています。複数のグローバル企業が同一のサプライヤーから調達していたため、一国に留まらない世界規模のクロス・ボーダーな回収へと発展しました。

アラキドン酸(ARA)オイルが乳児の脳と網膜の発達に重要なオメガ6脂肪酸であることを示す図

 現時点では、中国産ARA(アラキドン酸)オイルにおいて、どの工程で、どのようにセレウリドが混入したのかについて、確定的なエビデンスは公表されていません。したがって、特定の企業や工程を断定的に論じることはできません。

 セレウリド(cereulide)の構造式 出典:Wikipedia  、作成者:RichHard-59  、ライセンス:CC BY-SA 3.0

しかし、一般論として「なぜこのような事象が起こり得るのか」を考えることは可能ですので、以下に筆者の観点で、整理します。

⚠️セレウス菌は「どこにでもいる」芽胞形成菌である

Bacillus cereus はバチルス属の芽胞形成菌であり、

  • 土壌
  • 植物原料
  • 粉体原料
  • 製造環境中の塵埃

など、自然環境中に極めて広く分布しています。

特に芽胞は、

  • 乾燥
  • 加熱
  • 消毒

に対して強い耐性を示すため、原料段階で完全に排除することは本質的に困難です。

セレウス菌が土壌や植物原料、製造環境中の塵埃から原料段階で混入し、乾燥・加熱・消毒では完全排除が困難であることを示す図

⚠️油脂原料とバチルス属菌の「相性」

一般に油脂そのものは水分活性が低く、微生物が増殖しにくい基材と考えられています。
しかし、

  • 油脂原料の製造前段階(発酵、抽出、濃縮)
  • 乳化・混合工程
  • 油脂を含む中間体(スラリー状原料)

といった水分を含む工程では、バチルス属菌が生残・増殖する余地が生じます。

実際、過去には、

  • 食用油脂の製造工程
  • レシチンや脂溶性栄養素材
  • 乾燥粉末化前の中間原料

などで、バチルス属菌の汚染が問題となった事例が知られています。

 さらに、セレウリドという毒素が持つ『油に溶け込みやすい』という強烈な親油性のため、高度な精製工程を経るオイルであっても、耐熱性の高い毒素を完全に取り除くことは容易ではありません。

親油性をもつセレウリド毒素が油脂の精製工程を通過し、高度な精製後もオイル中に残留し得る仕組みを示す図

なぜ「セレウリド」混入を防ぐのは難しいのか

 食品微生物学の専門的視点から見ると、この事件は極めて厄介な問題を孕んでいます。

1️⃣耐熱性という「物理的」な壁

 セレウリドは121℃でも長時間(>80–120分)でないと失活しにくいとされ、通常工程での無毒化は期待しにくい毒素です。粉ミルクの製造工程における噴霧乾燥などの加熱殺菌では、菌自体は死滅しても、一度作られた毒素はそのまま製品に残ってしまいます。

この驚異的な耐熱性の理由は、その「構造のシンプルさと特殊さ」に集約されます。

「タンパク質ではない」という決定的な違い

 例えばボツリヌス毒素などは、複雑な立体構造を持つ「単純タンパク質」です。これらは熱を加えると、構造を支える水素結合がバラバラに切れてしまい、二度と元に戻らない形に壊れます(変性)。一方、セレウリドは低分子のペプチドです。分子が小さく単純なため、熱運動によって一時的に形がゆがんでも、ヘアピンが戻るようにすぐ元の形へと復元してしまいます。

環状構造による「究極の安定性」

 セレウリドは、アミノ酸と酸が交互に繋がった「環状ドデカデプシペプチド」という輪っかの形をしています。これは、保存料として知られるポリリジンのような単純な分子が持つ「熱への強さ(可逆性)」をさらに強化したような構造です。輪の形をしている(環状)ことで、破壊のきっかけとなる「端(末端)」が存在せず、熱運動の影響を最小限に抑え込む「鉄壁の安定性」を獲得しているのです。

ボツリヌス毒素などのタンパク質毒素と、加熱や消化酵素でも変性しにくい低分子環状ペプチドであるセレウリドの違いを示す図

消化酵素を寄せ付けない防御力

この特殊な環状構造は、熱だけでなく人体内の防御システムも無効化します。タンパク質を分解するペプシンやトリプシンといった消化酵素は、セレウリドの強固な輪っかを切り裂くことができません。その結果、胃酸にも負けず、毒性を持ったまま腸へと到達してしまいます。

2️⃣ハイリスク食品として「徹底された対策」がゆえの盲点

 なぜこれほど危険な毒素が見逃されたのか。そこには、現在の高度な衛生管理基準が生んだ「皮肉な死角」がありました。

主要ターゲットからの除外(クロノバクターとサルモネラ)

 乳児用粉ミルクの製造現場において、最大の警戒対象はクロノバクター・サカザキサルモネラです。これらはn=複数検体、c=0のサンプリングプランに基づき、「不検出」が要求される病原菌であり、製品への混入は規格上許容されていません。企業の検査リソースがこれら「既知の強敵」に集中する一方で、環境中に広く存在するセレウス菌、特にその「熱で消えない毒素」への警戒は二次的なものになりがちでした。

「生菌数」検査の限界と規制の空白

 製造現場で「菌そのもの」を徹底的に抑えていても、上流原材料で“毒素”が関与するとリスクの形が変わります。

 確かに、EUの微生物基準(Regulation (EC) No 2073/2005)などでは、乳児用粉ミルクの製造工程終点における指標として「推定 B. cereus:$n=5, c=1, m=50, M=500$ CFU/g」という工程衛生基準(Process Hygiene Criteria)が規定されています。しかし、ここには実務上の大きな「落とし穴」が二つあります。

  1. 「衛生基準」であって「安全基準」ではないこの基準はあくまで「製造工程の管理が適切か」を評価するための指標であり、これを超過しても即座に不安全な食品としてリコールを強制される食品安全基準(Food Safety Criteria)とは法的な性質が異なります。
  2. 「毒素」に対する直接規制の不在最も深刻なのは、現在、世界中のどの国においても、また国際的な食品規格であるコーデックス委員会(Codex)においても、粉ミルク中のセレウリド(毒素)濃度に関する明確な法的閾値(閾値)や衛生基準が確立されていないという事実です。

セレウリドのヒトに対する急性参照用量(ARfD)を算出するための科学的データが不足しており、現在ようやくECDC(欧州疾病予防管理センター)やEFSA(欧州食品安全機関)がその策定を急いでいる段階です(欧州疾病予防管理センター公式ニュース、2026年1月28日公開)。 

 今回のARAオイルのように、高度に精製された原材料において「菌そのものは死滅(あるいは除去)しているが、上流で産生された毒素だけが残存している」というケースでは、従来の生菌数ベースの工程管理(指標菌検査)をすり抜けてしまいます。乳児は体重当たりの摂取量が多く、肝臓・腎臓などの解毒・排泄能が未熟なため、微量のセレウリドであっても甚大な健康被害を受けるリスクがあります。この「基準の欠如」が、企業の初動や客観的なリスク評価を困難にし、結果として大規模な自主回収という事態を招いた一因と言えるでしょう。

乳児用粉ミルクではクロノバクター菌とサルモネラ菌の不検出が最優先され、セレウス菌毒素に関する国際的衛生基準が未整備で見過ごされやすい状況を示す図

まとめ:我々が学ぶべき教訓と課題

 今回のダノン社の事例は、どんなに厳格なHACCPプランを運用していても、サプライヤーから持ち込まれる「耐熱性毒素」を水際で食い止めることの難しさを突きつけています。整理すると、本事例は次のような構造的な問題を浮かび上がらせています。

  1. 単一サプライヤー依存
    • 複数の大手企業が同一の中国製ARAオイルを使用
    • グローバル供給の集中リスク
  2. 「低リスク原料」の検査頻度
    • ARAオイルは従来「低リスク」分類
    • 生乳などの「高リスク」原料より検査が緩い
    • 今後HACCPで見直しの可能性
  3. 原料交換の困難性
    • 栄養成分の厳密な規格要求
    • 代替サプライヤーの確保が困難
    • 製品供給への影響

 特に乳幼児用食品のようなハイリスク製品においては、従来の生菌数管理(指標菌検査)だけでは不十分であり、「原材料段階での毒素直接測定」や、「サプライヤーにおける初期段階の増殖抑制」の徹底が不可欠であることを示しています。

 しかし、これらを製造業者が日常的なルーティンとして取り入れるには、極めて高いハードルが存在します。セレウリドの定量にはLC-MS/MS(液体クロマトグラフィー質量分析計)という高度な分析機器と専門的な技術が不可欠であり、フランス国内でさえ行政が認める公的に参照法として位置付けられた中枢機関は ANSES(一拠点)であり、ルーティン鑑定ができる機関はかなり限られているのが実情です。今回のダノンやネスレの事件を受けて、民間の受託検査機関も「ルーティンでの分析サービス」を急ピッチで開始しているようです。

セレウリド分析に対応するため、LC-MS/MSを自社導入するか外部分析機関に依頼するかを検討する食品企業担当者の様子を示す図

 このように、測定技術そのものが「特殊な検査」の域を出ていない現状において、いかにしてサプライチェーン全体の安全を担保していくのか。今回の事件は、個別の企業の努力を超えた、検査体制の拡充や国際的な基準策定という構造的な課題を我々に突きつけています。今後は、世界各国の規制当局の動向や、国際的な安全基準の見直しがどのように進むのかを、冷静に注視していく必要があるでしょう。

補足:欧州の解説記事では、フランス当局が乳児死亡事例を調査していますがが、科学的に因果関係が確立していないという保健省コメントが紹介されています。また、今回のケースは、必ずしもすべての製品からセレウリドが検出されたわけではありませんが、リスクを完全に否定できない段階で迅速に動く「予防原則(Precautionary Principle)」に基づいた欧州らしいリスク管理のあり方を反映しています。