大腸菌は哺乳動物の糞便に由来するグラム陰性菌で、その環境耐性の弱さから糞便指標に利用されています。ところで、大腸菌が人の清潔でない手を介してテーブルに移ると、どれくらいの時間その場所で生き延びることができるでしょうか?この問いは、衛生管理上非常に意義深いものです。この記事では、テーブルなど固体表面上で大腸菌がどれだけの時間生き延びることができるのか、科学的研究結果を通じて解き明かします。
糞便から汚染された大腸菌は、テーブルの上でどれぐらい生き残るの?
食品微生物学の基本学習として、大腸菌はグラム陰性菌で環境ストレスが弱いために糞便などから環境へ放出されると、次第に死滅して行くからこそ、衛生指標菌として価値があるものだとされています。
ここで素朴な疑問として実際にトイレに入ったとして、そして手を洗わなかったとして、そこに大腸菌がついていたとします。
その手指でオフィスのデスクなどを触った場合に、そこに大腸菌が付着します。この大腸菌は一体全体、そのテーブルの上で何日間生き残るのでしょうか?
食品環境で考える場合、拭き取り検査で大腸菌が検出された場合は衛生管理が不十分であると判断されますが、その大腸菌が一か月も二か月もその場所に生存しているのか、あるいは数日間なのか、数時間なのか、というのは素朴な疑問です。
実は、この素朴な疑問に関しての出版データは以外と少ないのが現状です。
ハノーバー医科大学の実験
ドイツのハノーバー医科大学のカッツェンベルガー博士は、このような疑問に対する答えを提供する実験を行いました。
Katzenberger et al.
Bacterial survival on inanimate surfaces: a field study BMC Res Notes (2021) 14:97
https://doi.org/10.1186/s13104-021-05492-0
open access
実験方法の概要は以下の通りです。
カッツェンベルガー博士らは、様々な微生物を異なる材質の固体表面に塗布し、室温で4週間保持しながら生存菌数を測定しました。研究チームは大腸菌(E. coli)、黄色ブドウ球菌(S. aureus)、肺炎桿菌(K. pneumoniae)、緑膿菌(P. aeruginosa)、バウマンニ菌(A. baumannii)、マルセスセンス菌(S. marcescens)、フェシウム菌(E. faecium)、ロアカ菌(E. cloacae)など、病院内感染の原因となる菌を含む複数の菌種をテーブルなどの固体表面に塗布し、その生存期間を調査しました。
具体的な実験方法は、各菌種を0.9%の塩化ナトリウム溶液に懸濁させ、ガラス、ポリ塩化ビニル、ステンレス鋼、アルミニウムの表面に綿棒で塗布しました。これらの表面は、日常生活で大腸菌がテーブルを汚染した際の条件を再現するため、通常の室温と湿度で保管されました。サンプリング期間は4週間で、生存菌は接触プレート法を用いて回収されました。この方法では、試験固体表面に寒天プレートを押し付け、菌を回収した後、そのプレートを培養してコロニー数を数えます。
実験結果の概要は次のとおりです。
本記事で紹介する実験結果の概要は、特に食品微生物学的な興味の対象となるグラム陰性菌の大腸菌とグラム陽性菌の黄色ブドウ球菌に関する結果のみを抽出したものです。結果から、大腸菌は固体表面上で2日未満に急速に死滅することがわかりました。一方で、黄色ブドウ球菌は、少なくとも1週間生存しました。
実験結果は、大腸菌が黄色ブドウ球菌よりも固体表面での生存率が低いこと、そして異なる材質の表面でも、大腸菌は2日未満で急速に死滅することを示しています。
上図は、本記事で引用している論文(Katzenberger et al. )のデータからブログ執筆者がデータを抽出して作図
ブログ筆者の注釈
本記事で紹介したカッツェンベルガー博士たちの実験は、大腸菌や黄色ブドウ球菌が実際にテーブルなどの固体表面上でどれほど生存するかを直接的に示したものです。この結果から、グラム陰性菌である大腸菌はグラム陽性菌である黄色ブドウ球菌に比べて、固体表面上での生存期間がはるかに短いことが明らかになりました。
ただし、本記事で紹介した実験結果はあくまで特定の実験条件下での結果に過ぎないことに注意が必要です。実際に大腸菌が手指から食品工場の環境やその他の環境に汚染される場合、手指の汗などの有機物やその固体表面に存在する有機物、またはそこに共存するバクテリアなどの影響を受けて、このデータよりも長期間生き残る可能性があります。
したがって、このデータをそのまま鵜呑みにするのではなく、基本的な理解として捉え、試験管実験レベルで固体表面に付着させた場合には、この程度の速さで死滅するという概略を把握してもらえればと思います。
いずれにしても、大腸菌が糞便汚染の指標菌とされる理由は、この記事で示されたように、大腸菌が比較的急速に固体表面に付着した場合に死滅するからです。逆に言えば、これらの菌が固体表面から検出されるということは、比較的最近に糞便汚染があったことを意味します。
注)本記事では、大腸菌と黄色ブドウ球菌についての結果のみを紹介しましたが、紹介された論文では、これら以外にもさまざまな院内感染菌の生存に関する実験が行われています。特に院内感染で問題となるアシネトバクター・バウマニー(グラム陰性菌)とエンテロコッカス・フェシウム(グラム陽性菌)は、表面の素材に関わらず高い生存能力を示し、1か月という観察期間が終了した時点でも検出可能であったことが報告されています。病院での院内感染に興味のある方は、紹介された論文の原文をご参照ください。
本記事に関連して、大腸菌の基礎や指標菌としての意味を学びたい方は下記記事をご覧ください。