カンピロバクター、大腸菌O157、ノロウイルスなど、現在の食中毒細菌の主役たちを、いつ頃人類は認識するようになったのでしょうか?実は、これらの微生物はすべて、比較的新しい存在であり、1977年以降に登場しました。この記事では、カンピロバクターがどのようにして研究史上に登場したかに焦点を当て、その歴史を掘り下げてみます。
下図のように、カンピロバクター、大腸菌O157、ノロウイルスに関する国際論文の数の推移をみると、1977年以前にこれらの微生物に関する論文は出版されていませんでした。
この記事では、3つの食中毒菌のうち、カンピロバクターの発見の経緯について詳しく見ていきたいと思います。
1977年以前の研究史
人類がカンピロバクターを認識する以前から、カンピロバクター感染による下痢や腹痛は多発していたと考えられます。カンピロバクター感染症に関連すると思われる論文をさかのぼると、20世紀初頭には、ビブリオ属の細菌であるVibrio fetusが羊や牛の流産の原因菌として報告されていました。また、ヒトへの感染との関連性については、1947年に流産妊婦の血液からこの細菌が分離されたことが報告されています。
Vincent, R. et al. Septicemie grave au cours de la grossesse, due a un vibrion. Bull. Acad. Nat. Med., 131, 90-92 (1947)(古い論文なのでネット公開なし)
特に、1957年には、当時米国で設立されたばかりのCDCの新進気鋭の女性研究者であったエリザベス・オズボーン・キング博士が、Vibrio fetusの詳細な生理性状を調べ、次の2グループに分けられることを明らかにしました。
- 25℃では増殖できるが42℃では増殖できないグループ
- 25℃では増殖できないが42℃で増殖できるグループ
❶はVibrio fetusであり、家畜や人の敗血症などから分離される菌であるのに対して、❷はもっぱら下痢症患者から分離されることから、Vibrio fetusと区別すべきであると、彼女は報告しました。❷は現在のカンピロバクターと考えられます。しかし、キング博士は患者の糞便からこの細菌を分離し、継続培養することができなかったため、この菌はその後、注目を集めることはありませんでした。
1977年ーカンピロバクター元年
カンピロバクターと下痢症との関係について事態が急展開するのは、 キング博士の論文の20年後、1977年、英国のウスターシャー・ロイヤル病院のマーティン・スキロー博士の論文によってです。
Skirrow, M. B. Campylobacter enteritis: a “new” disease. Br. Med. J., 2, 9–11(1977)
この論文は「多くの人々にとってカンピロバクターという言葉は初めて聞く言葉であると思う」 という文章ではじまっています。
博士は、カンピロバクターの培養方法を提案し、下痢腹痛の患者とカンピロバクターとの関係を明確に示しました。スキロー博士自身が、この論文を書いた当時の状況を説明した資料をものに、以下にその内容を要約して紹介してみます。
Skirrow, M. B. Current Contens 36(7),18(1987)→論文ではなく、随筆のため、2023年3月時点では、ネット上から消えています。
スキロー博士の回想録を抜粋
1975年の日曜日の朝、原因不明の発熱と下痢で苦しんでいる生後1か月の赤ちゃんの血液培養サンプルを調べてくれという一本の電話が私にかかってきました。
顕鏡してみると、これまで見たことのない、らせん状の細菌が泳いでいました。
この微生物は後にCampylobacter jejuniと同定されることになった細菌です。この細菌が分類学的に所属する属名は十数年前に(ブログ執筆者注、1963年のこと)カンピロバクター属という名前が付けられていました。しかしそれは分類学の世界の話であり、私たち医学系微生物学者にとってはカンピロバクターという名前は聞いたこともない属名でした。
調べていくと、Vibirio fetus(著者注、この時点では、カンピロバクター属に移行分類されていた)という細菌が、獣医学の世界では、羊や牛の流産の原因菌として20世紀初頭から知られていることを知りました。私はさらに文献を調べました。3年ほど前に(ブログ執筆者注、1973年)ベルギーの研究者たちが、下痢を発症した子供の5%からカンピロバクター属が検出されることを報告していました。私はこの論文に強い興味を覚えました。
Butzler et al. Related vibrio in stools. Pediatr, 82, 493-495 (1973).
同時に驚いたことには、この論文がその後3年もたっても、引用されていなかったことでした。これは今考えても、不思議です。私は当時、ベルギーの研究者たちの論文は重要な発見をしているのではないかと感じました。なぜなら、当時子供の下痢の原因はほとんどわかっていなかったからです。彼らの論文は下痢の子供の5%の便からカンピロバクターが検出されたことを述べていました。私が調べた子供患者の便でも、7%から同様にカンピロバクターが検出されました。
これまで不明であった子供の下痢の多くの原因は実はカンピロバクターではないか?という考えが私に浮かびました。
一方で、ベルギーの研究者たちのカンピロバクターの分離の方法はいささか手が込んだものであり、一般の研究者が簡単にできるものではなかったことは事実です。彼らのカンピロバクターの分離方法は、糞便サンプルを0.64ミクロンの孔径のフィルターでろ過をして、そのフィルターを血液寒天培地で培養する方法でした。
私はもっと簡単にカンピロバクターを分離できる培地と培養方法(バンコマイシンなどの抗生物質数種類の添加と43℃での微好気性培養)を1977年の論文で発表しました。
この論文がその後、数多く引用されることになった理由は、このように簡便なカンピロバクターの培養法を提案したということもあります。と同時に、私はこの論文で803人の下痢患者の便の7.1%からカンピロバクターが分離された一方で、194人の健康な人の便からはカンピロバクターは検出されなかったことも示しました。私の論文をきっかけに多くの研究者たちが、カンピロバクターと下痢症との関係について気づいてくれるようになったことは事実です。しかし、カンピロバクターと下痢症の関係の発見については、先駆的な研究を行ったキング博士(彼女は彼女の成果が評価される前に他界しました)と、ベルギーの研究者たちに大きな功績があることを忘れてはいけません。」(以上、要約)
スキロー博士の功績
このようにスキロー博士の論文の前に先駆的研究を行った研究者達もいたことは事実です。しかし、スキロー博士の論文をきっかけに世界の研究者がカンピロバクターと下痢性感染症との間に強い関係があることに気づいたことは間違いありません。また、スキロー博士の開発した培養法によってはじめて、いろいろなサンプルからカンピロバクターを分離することが可能となりました。その結果、これまで原因不明であった下痢症の大部分がカンピロバクターによるものであるということが次々と明らかにされるようになりまsた。したがって、スキロー博士の論文の論文が出版された1977年こそ、カンピロバクター元年と考えてよいでしょう。
なお、スキロー博士の生涯の論文数を調べてみて驚いたことに、博士は36論文しか発表しておらず、微生物系の研究者としては佳作です。しかし、上記論文は、900回引用されており、博士の名はカンピロバクター研究のパイオニアとして高く評価されています。博士の業績は研究の質が重要であることを示しています。
カンピロバクターの研究がピロリ菌の研究にも発展した
また、スキロー博士は、その後、ノーベル賞受賞研究者の研究にも大きく関与することになります。ロビン・ウォレン博士とともに2005年度のノーベル医学生理学賞を受賞したオーストラリアのバリー・マーシャル博士との協力関係です。マーシャル博士のノーベル賞受賞講演の一部をここに抜粋してみます。
「ピロリ菌と胃潰瘍との関係について予備的な実験結果を得ていたものの確信を持ってなかった日々、1983年9月に英国のスキローを博士の電話番号を、デビット・マクゲチー博士から教えてもらいました。スキロー博士は、1983年のカンピロバクターのシンポジウムにピロリ菌に関するプレゼンテーションを行う機会を与えてくれました。このシンポジウムの後に、スキロー博士の研究室を訪問しました。そして、なんと私の訪問3日後には、スキロー博士の研修医が英国の臨床サンプルからもピロリ菌を分離することに成功してくれました。これによりピロリ菌はオーストラリアだけではなく英国の患者からも分離できることがわかりました。私の初期段階の研究の微生物学的な援助をスキロー博士が行なってくれましたことに感謝します」(著者訳、以上ノーベル賞受賞講演の一部)。
スキロー博士の論文が出版された1977年当時の日本の様子
ところで、スキロー博士がこの論文が出版した1977年は、日本はどのような年たったでしょうか。第一次福田内閣が発足しています。スポーツ分野では王選手がホームラン世界記録 756号を達成しています。また、音楽シーンではピンクレディーの渚のシンドバットが爆発的ヒットを飛ばし、キャンディーズが日比谷野外音楽堂で行われたコンサートで「普通の女の子に戻りたい」と解散宣言とあります。
※この記事は、公益社団法人日本食品衛生学会の特別企画「日本食品衛生学会創立60年を迎えて」に私が寄稿した記事(2020年)を、ブログ用に大幅に加筆修正したものです。