この3部作では、驚くべき発見から衝撃的な研究史まで、1977年以降の食中毒細菌の世界に迫ります。シリーズ2記事目の本記事では、腸管出血性大腸菌(EHEC)がどのようにして科学のスポットライトを浴びることになったのか、そしてその歴史の中でどのような発見があったのかを徹底解説。腸管出血性大腸菌の登場の舞台裏をわかりやすくお届けします。
腸管出血性大腸菌の登場の歴史
大腸菌O157の発見の歴史では、前記事で登場したカンピロバクターに比べると、様々なプレイヤーが役割を果たしていますので、時系列的に述べます。
1975年
まず、1975年に、血便患者から分離された大腸菌株が、米国の地方衛生機関からCDC(疾病対策センター)に提供されました。この大腸菌株は、血清型O157:H7と特定されました。実は、2年前の1973年に、CDCは各地方衛生機関から提供される菌株の血清型を調査するプロジェクトを開始していました。このO157:H7の血清型は、そのプロジェクトの一環として登録されたものです。
しかしながら、1975年当時、この血清型が感染症との関連で特別な注目を浴びることはありませんでした。地方衛生機関から送られてきた大腸菌の血清型の一つという位置づけであったためです。
1977年
次に、1977年の出来事について見てみましょう。この年、カナダのコノワルチュク博士が、子供の下痢性患者から分離した大腸菌の培養液を、培養細胞であるアフリカミドリザルの腎臓細胞(ベロ細胞)に加えると、その細胞が死んでしまう現象を発見しました。しかしこの時点では、この大腸菌が感染症との関連で重要な意味を持つとは、研究者たちの間で認識されていませんでした。
注:ベロ細胞:1962年、日本人研究者(千葉大学医学部細菌学教室の安村美博士)がウィルス研究用にアフリカミドリザルの腎臓上皮細胞から分離・樹立した組織細胞です。
1983年(腸管出出血性大腸菌研究元年)
そして、1983年が訪れます。
1982年2月、米国オレゴン州でハンバーガーを食べた後、鮮血の下痢と激しい腹痛を訴える患者が報告されました。その時点では原因は明らかではありませんでしたが、3か月後の5月には遠く離れたミシガン州でも、同様にハンバーガーを食べた後に同じような症状を持つ患者が現れました。ちなみに、当時のCDCレポートや論文では、ハンバーガーを提供した店舗は匿名レストランとされていましたが、後述するように実際には両州の店舗はマクドナルドでした。
これらの2つのアウトブレイクを受け、CDCのリリー博士らが調査を行いました。そして1983年に、これら2つのアウトブレイクの原因となった大腸菌が、これまでほとんど知られていなかった稀な血清型、O157:H7であることが報告されました。 先述の通り、O157:H7という血清型自体は1975年にCDCのデータベースに登録されていました。しかし、この血清型がアウトブレイクの原因菌として初めて登場したのは、1983年のリリー博士らCDC研究チームの論文においてでした。
一方で、やはり1983年に、赤痢菌の毒素研究に従事していたオブライエン博士らが、5年前にコノワルチュク博士が報告した大腸菌のベロ細胞致死毒素が、赤痢菌が産生する毒素(志賀毒素)と同じであることを報告しました。
さらに同じく1983年には溶血性尿毒症症候群(hemolytic uremic syndrome:HUS)の原因としてベロ毒素が関わっていることも、カナダの公衆衛生研究所のカーマリー博士によって証明されました。
このように、1983年は、食中毒細菌史上において画期的な年となりました。ベロ毒素、志賀毒素、大腸菌O157、血便を伴う深刻な下痢感染症、溶血性尿毒症症候群という5つのキーワードが一つに結びつく報告が立て続けに行われたのです。そのため、1983年は、大腸菌O157が食中毒細菌史上に名を刻んだ登場の年と整理できます。
一般米国民に知られなかった10年間
ところで下図の論文数の推移を見ると、1983年以降の10年間にはあまり論文が出版されていません。1993年以降に初めて爆発的に論文が増え始めています。なぜでしょうか?
スコーパス調べ(ブログ執筆者)
実は、1983年以降、大腸菌O157のアウトブレイクは世界各地で散発的に報告され、関連の研究者の間で知られていたものの、この細菌が一般の人々に知られていたわけではなかったからです。米国において大腸菌O157がだれでも知っているいわば「国民的食中毒細菌」となるのは1993年になってからです。この年、その被害の大きさと痛ましさから、アメリカの食中毒史上最悪の食中毒事件とも呼ばれる大手ハンバーガーレストランのジャック・イン・ザ・ボックスでの大腸菌O157食中毒が起きました。以下にその経緯を説明します。
1993年(米国民が認知した年)
この事件は、1993年1月13日に、シアトルの救急病棟から始まりました。病院の小児科医は血便を伴う下痢症の子供達が急増していること、その子供たちが溶血性尿毒症症候群を起こしていることを、ワシントン州の衛生当局に報告しました。
衛生当局の調査により、患者に共通する点としてジャック・イン・ザ・ボックスのハンバーガーを食べているということが判明しました。シアトルのニュースが全国の衛生研究所に伝わると、まもなくカリフォルニア州、ネバダ州、アイダホ州でも血便下痢症の子供達が運び込まれていることが判明しましたた。これらの子供たちは皆ジャック・イン・ザ・ボックスのハンバーガーを食べていました。
この食中毒事件に関わったジャック・イン・ザ・ボックスの店舗は合計73店舗で、これらの店舗では当時ワシントン州が指針として出していたハンバーガーの加熱温度を十分に守っていませんでした。
患者のほとんどは10歳以下の子供であり、感染者732人でのうち4人の子供が亡くなりました。また生存した子供たちも178人が腎臓や脳障害などの終身的な後遺症を残すことになりました。
この事件は、1月20日に大統領就任式を終えたばかりのクリントン大統領にとって最初の週末に直撃しました。クリントン大統領は、2月10日にこの問題に対処するため、複数の州と中継で繋がったテレビでの公開説明会に出席しました。そこで、4人目の死亡犠牲者となった子供の両親であるダドワイラ夫妻からの質問を含め、多くの質問への対応に追われることとなりました。
大腸菌O157は、10年前の1983年に初めて衛生当局により認知され、その後散発的に全米各地で発生し、死者も出ていました。しかし、国民にはこの事実があまり知られていませんでした。このことに対する不満と怒りが、国民の間に渦巻いていました。
この事件の生存者の中で最も象徴的な存在が、当時9歳だったブリアンナちゃんです。彼女はハンバーガーを食べた後、血便下痢や溶血性尿毒症を発症し、さらに敗血症により脳にまで感染が広がり、痙攣を起こして6か月間意識を失いました。しかし、懸命な治療の甲斐あって、入院から6ヶ月後に彼女は奇跡的に意識を取り戻しました。しかし、彼女の感染による影響は多岐にわたり、糖尿病、喘息、脳の損傷、そして将来的には移植が必要になる腎臓の問題など、永続的なものとなりました。ブリアンナちゃんは、長い闘病生活を送った被害者として、この事件のシンボルとなりました。
ブリアンナちゃんの両親がジャック・イン・ザ・ボックスに対して起こした訴訟の弁護士であるビル・マーラーは、2012年にブログで「もし1982年のハンバーガー食中毒事件を起こした店舗が匿名ではなくマクドナルドと明記されていたらどうなっていただろう」という記事を書いています。その内容を簡単に要約してみましょう。
「私は過去数週間、政府機関(CDC、FDA)に、彼らの報告書における匿名性の扱いについて疑問を投げかけている。食中毒を起こした企業やレストランを匿名扱いすることは、長い間医学ジャーナルでの慣行である。1993年、若き弁護士としてジャック・イン・ザ・ボックスに対する被害者賠償訴訟に関わった際、その10年前に出版された1983年のオレゴン州とミシガン州のハンバーガー食中毒事件のレポートを見て、私は驚愕した。レポートにはレストラン名は書かれていなかったが、すぐさま、わたしはこれが今回と同じジャック・イン・ザ・ボックスであると思った。10年間で同じ事件が2回も起こるとは、信じられないことだ!しかし、より深く調べていくと、レポートに書かれているレストランは実はジャック・イン・ザ・ボックスではなく、マクドナルドだということがわかった。もしジャック・イン・ザ・ボックスの責任者が、10年前の事件が単なる「レストランA」ではなく、自社とライバル関係にある大手ハンバーガーチェーンであるマクドナルドだと知っていたら、果たして今回の食中毒事件は起きたでしょうか?加熱不足のままハンバーガーを作っていただろうか?」(以上、要約)
マーラー氏のコメントは、食中毒事件のレポートにおける匿名性と透明性の問題について考えさせられるものです。
この事件を契機として1995年に、大腸菌O157は全米すべての州政府保健局において報告義務のある病原体に指定されました。また、当時新しく登場した分子タイピング技術であるパルスフィールド電気泳動が、大規模なアウトブレイクの分子疫学解析に米国で初めて使用されたのは、この事件においてです。
1993年当時の日本
以上、大腸菌O157が米国国民の前に忘れがたい記憶として登場したのが1993年です。この年の日本では、細川内閣誕生、サーッカーのJリーグ開幕、皇太子と雅子様のご結婚などが主な出来事でした。また、1月にクリントン大統領がこの事件の対応に追われていたころ、1月27日にZARDのシングル「負けないで」がリリースされました。
なお、日本でも、米国のアウトブレイクから3年後の1996年、堺市学童集団下痢症が発生し、児童7,892人を含む9,523人が罹患し、3人の児童が命を失いました。
腸管出血性大腸菌の基礎事項を確認されたい方はこちらの記事をご覧ください。