病原微生物の人間への病原性とはそもそも、何でしょうか?病原性の遺伝子はヒトに感染させたり、食中毒をおこすために生まれたものでしょうか?本記事では、腸炎ビブリオやコレラ菌のヒトへの病原性の遺伝子が自然界の中で、人間への感染経路とは全く無関係に進化してきたことを示します。

※腸炎ビブリオの基礎事項を確認したい方は、下記記事をご覧ください。
食中毒菌10種類の覚え方 ④腸炎ビブリオ

 綺麗な海水浴場で誤って海水を飲んでしまった場合に私たちは食中毒になるでしょうか? その答えはノーです。海水の温度は真夏でも28°C以上になることはありませんが、私たちの腸内は37°Cです。有機物濃度も、海水はスープを数百倍薄めた程度の濃度しかありませんが、腸内はスープを数百倍に濃縮したような濃い有機物環境です。このように、海洋細菌の生息している海の水の環境はと私たち哺乳動物の腸内とは全く異なる環境なので、海洋細菌は哺乳動物の腸内の中で増殖することができないのです。

 例外として腸炎ビブリオとコレラ菌があります。この2つの細菌は海洋細菌であるにも関わらず哺乳動物の腸内で増殖し感染を引き起こします。なぜこのようなことが起きるのかは不思議です。おそらく腸炎ビブリオとコレラ菌は何かの弾みで陸上哺乳動物への感染の病原因子を獲得したのだろうと、私も大学の授業で学生たちに教えてきました。

 ところがこのような考え方が誤りかもしれないことを示す論文が出版されています。メリーランド大学のリタ・コールウェル教授たちのグループが2015年に出版した論文です。コールウェル教授たちのグループは、メキシコ沿岸の南西部、東太平洋海膨に沿った深海潜水艦AlvinとNautileのダイビング中に、熱水噴出孔群の硫化物煙突を囲む水のサンプルが収集し、4つの中温細菌分離株を分離しました。これらはこれまでに報告のない新たなビブリオ属の新種と考えられ、Vibrio antiquariusと命名されました。

深海の熱水噴出孔と細菌の進化

 詳しくゲノム性状を調べてみると、予想された通り、V. antiquariusゲノムは、深海の環境条件に関連する生態学的機能を備えた遺伝子およびオペロンをエンコードしていました。しかし、驚くべきことは、この菌がヒトの疾患に関与するいくつかの遺伝子、もしくはそれに類似した遺伝子を複数持っていたことです。具体的には、 V. antiquariusのゲノムは、コレラ感染モデルで重度の下痢を誘発したり腸炎ビブリオで頻繁に見られるタイプIII分泌システム(T3SS)(エフェクタータンパク質を標的宿主真核細胞に直接注入する機能)の遺伝子を保有していました。また、腸炎ビブリオのtdhおよびtrhは持っていませんでしたが、C-IIの熱不安定溶血素(tlh)遺伝子を保有しており、それぞれV. alginolyticusおよびV. parahaemolyticusのヌクレオチドと97%および84%の類似性を持っていました。

 このように深海という生態学的に異なる環境に生息するビブリオ種におけるヒト病原性遺伝子の存在は驚くべきものでした。博士らはこの研究結果によって、ヒトへの病原性遺伝子は単に人間の病気の原因よりもはるかに基本的な生態学的役割を果たしている可能性が高いと結論付けています。具体的にどのような役割を果たしているかについては推測の域を出ませんが、海水中における生物間の相互作用においてなんかの役割を果たしているものと推測できます。

地球に最初の生命、すなわち原始的な細菌が誕生した33億年を1年間に例えると、ホモサピエンスの出現は大晦日の12月31日午後10時20分頃になります。さらに言うと、この20 世紀は日付が変わる前のわずかラスト20秒のカウントダウンにすぎません。地球全体の生命の歴史(すなわち細菌の歴史)からみれば、人間の出現などというのは、極めてごく最近の束の間の出来事であるということを認識しておく必要がありそうですね。

この論文は2015年に出版されたのち、これまでに35回の引用が行われています(2021年10月Scopus調査)。

論文→ Deep-sea hydrothermal vent bacteria related to human pathogenic Vibrio species
Proc Natl Acad Sci U S A. 2015 May 26;112(21)

※この記事は公益社団法人日本食品衛生学会の会員限定メールマガジンで私が執筆した記事を、学会の許可を得て、メルマガ発行以後1年以上経ったものについて公開しています。ただし、最新状況を反映して、随時、加筆・修正しています。