2026年8月23日、EUで食中毒菌の全ゲノム解析(WGS)を活用した新たな監視制度の適用が始まりました。Commission Implementing Regulation (EU) 2025/179 に基づく制度です。これにより、WGSを用いて食中毒の原因菌をEU全体で追跡・比較する仕組みが、いよいよ本格的に動き始めました。本ブログでは、約2年前の2024年10月、この制度化に向けたEUの動きを紹介しました。当時は、「米国GenomeTrakrのようなWGS監視がEUでも本格化する」という観点からの紹介でした。それから約2年。制度は正式に成立し、2026年8月23日から実際の適用段階に入りました。
本記事では、改めて、この制度を理解するうえで重要なポイントを整理したいと思います。それは、WGSの本当の威力は、いま発生している患者株同士を比較することだけではないということです。数年前に食品や食品工場から分離された菌株と、今日の患者由来株を照合できる――そこにこそ、WGSを食品安全行政に導入する大きな意味があります。今回は、2024年の記事以降、何が明らかになったのかを整理し、最後に日本で最近報告されたリステリア菌血症11例の事例を通じて、日本の現状も考えます。
1.EUの新制度―何が義務化されたのか
UR-Lex ― Commission Implementing Regulation (EU) 2025/179(適用日2026年8月23日)
義務化の対象菌は、Salmonella enterica、Listeria monocytogenes、Escherichia coli、Campylobacter jejuni、Campylobacter coli です。
ただし、これらの菌が分離されるたびにWGSが義務化されたわけではありません。直接の義務対象は、食品由来アウトブレイクに関連する、または関連が疑われる食品・動物・飼料・関連環境から得られた菌株です。加盟国当局は少なくとも1株についてWGSを行い、結果をEFSA(欧州食品安全機関)のWGSシステムに送ります。
ここは2024年の記事から補足したい点です。当時は「臨床株および食品分離株のWGSが義務化される」と広く紹介しましたが、正確には、今回の規則が直接義務づけているのはアウトブレイク関連の非ヒト由来株です。ヒト由来株は公衆衛生側のECDC(欧州疾病予防管理センター)のシステムが担います。つまり今回の制度は、既存のヒト側WGS監視と食品安全側のWGSデータをより確実につなぐための強化策と見るべきです。
この二つをつなぐ仕組みが、2022年から運用されている One Health WGS system(EFSAとECDCの共同システム)です。ヒト側は患者由来株をECDCのシステムへ、食品安全側は食品・動物・飼料・環境由来株をEFSAのシステムへ集積します。両プラットフォームは相互接続されており、ゲノムプロファイルを交換して、ヒト由来株と食品由来株の間に遺伝的関連がないか探索します。例えば複数国で似たリステリア症患者が発生し、患者株のゲノムプロファイルが食品側データベースのある工場由来株と近縁だと分かれば、そこから聞き取りや流通経路の追跡が始まります

2.WGSの真価は「過去」とつながったときに発揮される
ここが本記事の核心です。
食中毒発生時に患者株と疑われる食品の株をWGSして一致した――これも有用ですが、これだけなら従来のPFGEやMLVAを高精度なWGSに置き換えたに過ぎません。
WGSの本当の強みは別にあります。例えば2026年にある食品工場の環境からリステリア菌が分離され、患者は出ていないままWGSデータだけがデータベースに保存されたとします。5年後の2031年、複数の患者から分離された株がその工場株と極めて近縁だと判明する――こうなれば、5年前は意味不明だった環境株が、一気に重要な疫学情報に変わります。「昔の菌株」が「今日のアウトブレイク」を解く手掛かりになるのです。これが、大量のゲノム情報をデータベースとして蓄積する最大の意義です。

では、アウトブレイクと無関係な日常のモニタリング株はどうなるのでしょうか。欧州委員会が公表したRegulation 2025/179のFAQには、「routine samplingなどアウトブレイクと関連が疑われていないWGS結果もEFSAシステムに提出すべきか」という問いがあります。答えは「法的義務の対象ではない」としつつ、直後に「加盟国には、国内で利用可能なWGS結果を広く共有し、データベースを充実させることが強く推奨される」とあります。理由は、将来ヒトのアウトブレイク株から同じプロファイルが検出された際、過去の食品・環境株が公衆衛生調査の方向を示す可能性があるからです。つまりEUの制度は、義務化の最低ライン=アウトブレイク関連・疑い株としながら、本来目指す方向=平時の食品・環境株も蓄積という二段構えになっています。
同FAQには、「最近のアウトブレイクと関連がないのに、なぜWGSデータを何年も保存する必要があるのか」という問いもあります。欧州委員会は、過去のゲノムデータには、①特定の菌株が過去にどの食品・地域で検出されてきたかを知ることで新たな調査の方向を絞り込める、②食品製造環境に特定の菌株が長期間定着していることを把握できる、という二つの意味があると説明します。特にリステリア菌は工場の特定箇所に同じクローンが何年も定着することがあり、過去の環境株の情報は時間が経ってから初めて価値を持つことがあります。これは「食中毒が起きたら菌を調べる」という従来の発想とは大きく異なります。
3.先を行く米国GenomeTrakrの実践
「平時から食品・環境株を蓄積する」という発想を大規模に実践してきたのが米国FDAの GenomeTrakr です。FDA、USDA、州政府、大学などが食品・環境由来株をWGSし、患者由来株はCDCと州のPulseNet検査機関が主に配列を提供、NCBIのデータベースで比較可能になっています。重要なのは、米国ではアウトブレイク時だけでなく平時からWGSを蓄積している点です。
その意味をよく示す事例があります。FDAは2009年、米国中部大西洋岸のトマト栽培地域周辺で環境調査を行い、検出した病原菌をWGSして保存しました。翌2010年、ワシントンD.C.周辺で Salmonella Newport の集団感染が発生。患者株をWGSすると、前年に池から分離されていた株と極めて近縁でした。さらに流通記録から、その地域のトマトと患者が利用したレストランのつながりも確認できました。アウトブレイクが起きてから池を調べたのではなく、患者が出る前に採取していた環境株が後になって手掛かりになったのです。

GenomeTrakrはさらに、公衆衛生検査機関の冷凍庫に保存されている過去のアウトブレイク由来株についても、WGSを行い登録することを勧めています。FDAはこれらを「まだ読み解かれていない貴重な資源」と位置づけています。今日の菌だけでなく昨日までの菌もデータベースに入れることで、過去―現在―未来をつなぐ。これがGenomeTrakrの重要な思想です。
4.今回のEU制度の位置づけ
2026年8月23日に始まったEUの新制度は、単に「WGSが義務化された」と捉えるだけでは不十分です。法的義務の対象はアウトブレイク関連・疑いの菌株ですが、EU自身もそれだけでは不十分だと理解しており、日常モニタリングのWGS情報も提供するよう求めています。EFSAのOne Health WGS platformは2022年から運用され、食品・動物分野のデータをECDCのヒト側データと比較する仕組みもすでに構築済みです。
米国GenomeTrakrと同一の制度ではありませんが、方向としては明らかに「アウトブレイクが起きたらWGSする」から「ゲノム情報を蓄積し、過去と現在を横断して検索する」方向へ進んでいると言えます。
5.日本の現状と課題
最近、示唆的な症例報告が日本から発表されました。2023年6月27日から7月27日までの1か月間、京都府北部で11人の患者の血液培養から Listeria monocytogenes が分離された事例です。患者は3自治体に分散していました。11株のWGSの結果、core-genome SNPの最大差はわずか2 SNP。遺伝的に極めて近縁で、同一クラスターであることが強く示唆されましたが、原因食品は最後まで特定できませんでした。

この事例を米国やEUの考え方に当てはめると、次に知りたいのは「この菌と似たリステリア菌が過去に分離されていなかったか」です。過去の食品監視株、輸入食品由来株、違反・回収時の分離株、製造施設の環境株、他地域の患者株――こうしたWGSデータが全国的に蓄積されていれば、11人の患者株を検索にかけられます。数年前のある食品や工場環境株がヒットしたかもしれません。一致株が実在したかは分かりません。重要なのは、その検索を行える仕組みがあるかどうかです。これこそ、EUが整備し、米国GenomeTrakrが積み上げてきたWGSサーベイランスの大きな意味です。
京都の論文はさらに手前の問題も指摘しています。日本では、医師がリステリアによる食中毒またはその疑いと診断した場合には、食品衛生法に基づき保健所への届出対象になります。一方、リステリア症は感染症法上の届出対象疾患ではなく、リステリア菌血症も全数届出の対象ではありません。そのため血液培養から検出されても、全国的なリステリア症サーベイランスに自動的に集約される仕組みにはなっていません。今回の事例でも当初はアウトブレイクと認識されず、詳細な喫食歴が初診時に十分収集されておらず、クラスターと判明した頃には患者の記憶も曖昧になっていました。

日本の課題は二段階あります。
- 患者由来株を全国的・継続的に把握する仕組み
- 食品・環境由来株を平時からWGSデータとして蓄積し、患者株と過去にさかのぼって比較する仕組み
です。
なお、この京都の症例を報告した論文については、十文字学園女子大学の門間千枝先生からご紹介いただきました。貴重な情報をご提供いただき、ありがとうございました。
まとめ―日本では「比較する食品株」そのものが少ない
WGSサーベイランスの価値は、目の前の患者同士を結びつけるだけでなく、今日の患者株を数年前の食品・環境由来株と結びつけ、感染源を遡及的に探れる点にあります。
その点で日本にはもう一つ課題があります。日本で Listeria monocytogenes の規格基準が設定されているRTE食品は、生ハムなどの非加熱食肉製品やナチュラルチーズに限られています。そのため日常の行政検査から得られる食品由来リステリア菌株そのものが、欧米に比べて蓄積されにくい状況にあります。
患者株を集める仕組みだけでなく、将来の患者株と比較できる食品・環境由来株を、平時からどれだけ蓄積しておけるか。EUの新制度や米国GenomeTrakrの取り組みを見ると、日本でも今後この視点が重要になってくると思います。
食中毒が起きてから菌を集めるのではなく、平時に集めた菌株が数年後の食中毒を解く。全ゲノム解析の時代には、そんな食品安全監視の考え方が求められているのではないでしょうか。

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